消失前の愚陀仏庵。漱石は2階、子規は1階に住んだ。講談社「子規全集」第2巻から
前回に続いて愚陀仏庵のお話です。正岡子規と夏目漱石が同居生活を送った愚陀仏庵は松山の中心部二番町というところにありました。建物そのものは太平洋戦争中に消失しています。旧松山藩主久松家の別荘萬翠荘(松山市一番町、坂の上の雲ミュージアムの近く)の敷地内に復元されていた愚陀仏庵は2010年に土砂崩れで全壊してしまいました。再建しようという話も持ち上がっていますが、どうなっているかはよく分からないです。元々愚陀仏庵があった場所は駐車場になっています。
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漱石は明治28(1895)年4月に帝大卒の英語教師として松山中学に赴任。旧松山藩士上野義方宅の離れ(愚陀仏庵)で下宿を始めたのは6月下旬でした。当時の漱石の月給は校長の60円を上回る80円。子規の月給はMAXが40円でした。
俳句を作り始めようと思っているところだ
子規の帰郷は8月25日。いったん叔父の大原恒徳の家に腰を落ち着けます。彼の帰郷を待っていた俳句グループ松風会の柳原極堂(のちに「ほとゝぎす」を創刊し子規をバックアップ)の「友人子規」によると、彼は26日に大原家を訪ねて玄関先で立ち話をしています。子規は一両日中に漱石の下宿へ移るからそっちに来るように、と言い、松風会会員の下村為山(画家、俳人。内藤鳴雪の従兄弟。「ホトトギス」の挿絵も手がける)の消息や俳句の話をしました。
子規に近作を尋ねられた極堂が、為山への送別句「旅は憂し酒飲みならへ唐辛子」を伝えたところ「僕もそんな風の句をこれから作り始めようと思つてゐるところだ」と答えました。極堂は、その意味がこの時は分からなかったと回想しています。子規の帰郷は療養のため。俳句に懸ける決意を秘めて帰ってきたとは思ってもいなかったんですね。
ヘルメット形帽子 蒼白く痩せた顔に八字髭
中国からの帰国の船中で喀血し死線をさまよった子規。松山に戻った当時の雰囲気はどうだったのでしょう。極堂は「鼻下には口髭が生えてゐた。黒々とはしてゐないが慥かに八字形を認め得た。平生から蒼白い顔が一層蒼白に感じられた」と回顧。ただもっと痩せこけていると想像していたそうです。藤野古白(子規の従兄弟。この年4月に自殺)の母は「久しぶりで見た子規が、青ざめて痩せた顔に八字髭をはやして、フランネルの着物にヘルメツトの帽子を被つて宅へ帰って来た時は私は吃驚しました。東京で見ていた大学生姿とスツカリ変わつてゐるので驚いたのです」と回想しています。
ヘルメットの帽子は、神戸病院を退院し須磨の保養院に移る時に買ったもの。付き添っていた高浜虚子は「病後のやつれた顔に髭を蓄え、それにヘルメット形の帽子を被った居士の風采は今までとは全然異なった印象を余に与えた」(「子規居士と余」)と述べています。
当たり前と言えば当たり前ですが、出征前に撮った刀を持ったあの凛々しい写真とは別人のようになっていました。ヘルメットの帽子がどんなものかイメージしにくいのですが、周囲の人々にいたましい感じを与えたのは間違いなさそうです。
悲しきにつけても嬉しきは故郷なり
子規は須磨にいた時、鳴雪に手紙で不安を吐露していましたが、一方で虚子は、死の淵から蘇った保養中の子規の養子を「再生の喜びに満ちていた」と見ていました。既に新聞「日本」に中断していた「陣中日記」の最終回や「養痾雑記」を書いていたほどでしたから、体こそ衰弱していても松山で精神的にも元気をもらって「やってやる」という心境だったのでしょう。松山滞在中に書いた10月6日付「養痾雑記」の「故郷」は「世に故郷程こひしきはあらじ」と書き出し、「嬉しきも故郷なり。悲しきも故郷なり。悲しきにつけても嬉しきは故郷なり」と締めくくっています。この文章からも故郷が挫折した子規の支えになったことがうかがえます。愚陀仏庵の1階。講談社「子規全集」第2巻から
桔梗活けてしばらく仮の書斎哉
これは愚陀仏庵に移った子規が「漱石寓居の一間を借りて」という前書きを付けて詠んだ句です。8月27日に転居した翌日、この仮の書斎を極堂が訪問しています。極堂は松風会の成り立ちや現状を詳しく説明し「会員が君の指導を熱望してゐるから病間の都合がついた時少しなりと話してやつて貰ひたい」と依頼しました。子規は「欣然としてこれを快諾し、まだ外へ出て俳会に臨むといふやうなことは許されないが、僕の処へ来らるゝならば何時でも差支へない」と答えたのでした。
極堂は「二十七年の晩春頃から芽を出して叟柳(そうりゅう)、為山等諸氏に培はれつゝ約一年を経た松風会は、こゝに全く子規直属の一俳団となつた。地方の新派俳団としては全国中最も古い歴史を有してゐる」と誇らしげに書いています。叟柳は野間叟柳。松風会の中心メンバーです。
こうしてこの翌日から彼らが毎日のように愚陀仏庵を訪れるようになります。子規のやる気は松風会の面々をはるかにしのぎ、それは漱石をも引き込み、鼻血ブーの熱気に満ちた句会へとつながっていくのでした。
こんだけ書いてほとんど進みませんでした。最後までたどり着けるのか、ちと不安…。
主な参考文献 講談社「子規全集」12巻、22巻、高浜虚子「子規居士と余」(岩波文庫)、柳原極堂「友人子規」(博文堂書房)
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