講談社「子規全集」で活字化されている伊勢の門弟山本勾玉が参加した時の俳句会稿
伊勢土産として有名な赤福餅。つい先日、包装紙に100年以上に渡って使われてきた正岡子規の「到来の赤福もちや伊勢の春」という俳句に裏付け資料がないと指摘され、店が情報提供を呼びかけているとの報道がありました。
朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASK8S777MK8SPFIB00M.html
気になったので愚陀仏庵の話はお休みして、子規が赤福の句を詠んだのかどうか考えてみました。
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赤福では1911(明治44)年から子規の俳句に使っていて「1900(明治33)年、門弟の山本勾玉から赤福餅を土産に受け取った子規が、ありし日の伊勢参りを懐かしんでこの句を詠んだ――。そんなエピソードが創業家で語り継がれ、赤福のホームページでも紹介」していながら、肝心の俳句が子規の作品だとする資料がどこにもないことが分かったというお話です。
「餅買ひにやりけり春の伊勢旅籠」がヒント
記事にもある「餅買ひにやりけり春の伊勢旅籠」という句がヒントになりそうです。記事には明治33年3月24日付の新聞「日本」に「赤福餅」の題で掲載されたとあります。子規全集(講談社)を見てもそのようです。ただ作ったのは明治32年です。なぜ1年後に紙面に掲載したのか。子規全集15巻の句会稿にも注目してみました。確かに勾玉は、子規が赤福の俳句を詠んだと伝わる明治33年春の子規庵句会(4月8日)に参加しています。
旧作の新聞掲載は弟子へのメッセージ?
書簡も残っておらず、ただの推測になってしまいますが、地方から前触れなく参加することはまずないですよね。勾玉は事前に句会参加の希望を子規に伝えていたはずです。子規の考えに共鳴する俳人の輪が各地に広がりつつあった時期でしたから、地方からの句会参加は歓迎されたことでしょう。伊勢山田の門弟がやって来るという報せを受けた子規は、1年前に詠んだ句を思い出し「日本」に掲載したのではないでしょうか。わざわざ東京の句会に出ようとするほどですから、勾玉は熱心な弟子だったでしょう。「日本」に掲載された「餅買ひにやりけり春の伊勢旅籠」の句が彼の目に止まったことは十分あり得ます。
もしかすると新聞掲載は「赤福買ってきてね!」という子規のメッセージだったかも? なんて考えるのは想像を逞しくしすぎでしょうか。勾玉が赤福を持参したなら「分かってくれたか」と子規を喜ばせたに違いありません。ただでさえ遠来の訪問は嬉しいはず。さらに新聞を使った自分の茶目がきちんと伝わっていたとなれば、テンションが上がって一句、二句詠んで贈ったとしても不思議ありません。
というわけで私は、資料が残っていないとはいえ、子規が「到来の赤福もちや伊勢の春」と詠んだ可能性は高いと考えます。
子規は伊勢に行ったのか?
ただ伊勢に寄った往時を懐かしんだというエピソードは、勾玉の土産話が誇張して伝わったのではないかという気がします。子規が伊勢参りしたという記録はありません。筆まめな子規が、伊勢参り級のイベントをどこにも書き残さないということは、まずあり得ません。
記事にあるように明治20年の上京時は、横浜行きの船に乗るため四日市に寄っています。この年の夏休みに子規が指導を受けた松山の俳人大原其戎の子規宛て書簡で触れられているぐらいのようで、詳細は掴めませんでしたが、読めば子規が「京都見物して四日市経由で帰った」と報告したのを受けて書かれたことが分かります。伊勢に寄っていれば、それも報告すると思われますが、其戎の書簡では触れられていません。
子規は帰郷・上京する際、途中で友人を訪ねたり、合流したりしてあちこちで遊んでいます。ルートは松山-神戸は汽船。明治22年7月の東海道線新橋-神戸間の全通以後は鉄道を使うのが基本でした。ルートを変えて木曽経由などしたこともありますが、立ち寄った場所については、必ずといって言いほど俳句を詠んだり、紀行文を書いたり、書簡で報告したりしています。でも伊勢に触れたものはありません。旅行の記録もありません。
伊勢の句
以上が、伊勢に行っていないと考える根拠なのですが、子規記念博物館ホームページの子規俳句検索を使うと、伊勢の句が11句あります。松の花伊勢の朝日の匂ひ哉 明治26年
草枕今年は伊勢に暮れにけり 明治27年
のどかさや駅のはづれの伊勢の海 明治28年
どれも現地にいたことを思わせる句ですよね。明治26年には5句も作っていますが、この年は東北旅行がメーンで、入社したばかりの新聞「日本」の仕事も忙しかったはず。「餅買ひにやりけり春の伊勢旅籠」も伊勢で詠んだと解釈するしかないような俳句ですが、「俳句の日」に書いたように(記事はこちら)、さもそこにいたかのような俳句を作るのも子規です。写生の「看板」が大きすぎて、背景を知らなければ実体験の句と思ってしまうような句がたくさんあります。
果たして子規が伊勢の旅籠で誰かを餅を買いにやらせたことがあるのかどうか。現時点では、土井中さんが指摘されるように赤福餅のことは知っていたとしか言いようがなさそうです。
門弟の俳号が面白い
今回、子規全集22巻の「子規門俳句結社一覧」に目を通しました。勾玉の名は伊勢山田の白萩会、一時会の筆頭にありました。他の結社も見ていると「あた坊」「鈍化郎(読みは、にぶかろうでしょうか?)」「髭男」「素人」などユニークな名前が散見され、「ボール吟社」なんていう子規派らしい結社名もあって面白かったです。勾玉も変な俳号ですよね。「こうぎょく」と読むのでしょうか。みんな108のペンネームを持っていたという子規の門弟だけのことはありますね。門下グループは台湾、朝鮮、ロシアなど海外にも広がっていて、倫敦俳句会にはもちろん漱石、巴会(パリのグループ)には浅井忠、中村不折、勝田明庵(主計、松山出身の友人。野球仲間)の名がありました。勾玉が参加した句会
さらに余談。勾玉が参加した明治33年4月8日の句会稿も興味深いものがありました。参加者は16人。虚子、碧梧桐らメジャーどころは欠席。知名度の高い門弟としては佐藤紅録が出席していました。子規庵の句会はユニークな題を取り入れる点が特徴の一つだと思っているのですが、この日も「禁煙」という題が出されています。調べると未成年者喫煙禁止法が施行された年でした。私がもっとも気になった題は「女に惚れられし事」です。まったくもう、誰が言い出したんでしょうか(笑)
当然と言ったら怒られそうですが、得点句に子規先生の名前はありません!句会稿の作品に名前が記されるのは得点者だけ。だから子規がどんな句を詠んだかも分かりません。無得点だった7句を子規博の俳句検索にかけてみましたがヒットしません。詠まなかったのか、詠んだけど自句として残すのをやめたのか。出題者が子規だったらと思うと笑みがこぼれてしまいます。
句会との前後関係は分かりませんが、この年には「ほれられて通ひし春の夜も昔」という句も詠んでいます。どこに通っていたのでしょうか。実体験でしょうか。気になりますね(笑)
最後に勾玉が「女に惚れられし事」の題で3点取った句を紹介します。
ことよせて山吹くれし女かな
主な参考文献 講談社「子規全集」3、15、22巻
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