6歳で家督継承
前回は、弱虫だと言われながらも、お灸を据えても泣かない我慢強さをもっていた子規の話をしました。そのころの話を続けます。子規は6歳(数え年)で正岡家の家督を継ぎました。その直後に父常尚が40歳の若さで亡くなりました。正岡家は母八重、子規、妹律、曾祖母小島久の4人、ほぼ女世帯で八重の実家大原家の庇護を受けることになります。スポンサーリンク
父は反面教師?
子規には父の記憶がなく、「筆まかせ」に次のように記しています。「余は少しもその性質挙動を知らず。只その大酒家なりしことは誰もいふ処(ところ)にて毎日毎日一升位の酒を傾け給ひ、それが為に身体の衰弱を来し 終に世を早うし給へり」
武術も学問も今ひとつ。高慢で強情、意地の悪い人だったとも書いています。松山藩は維新の混乱期には幕軍側でした。維新に乗り遅れた士族が新しい世にどうやって適合していこうかという時期に、このような人物ではとても通用しなかったでしょう。
幼い子規に父の人物像を教えた人たちには「反面教師とせよ」という思いがあったのかもしれません。子規は、父親とは違って、小さいことから学問を好みましたし、成長するにつれ、自分の将来に夢を膨らませていく前向きな性格でした。大原家など周囲の薫陶のたまものでしょう。
曲がったことが嫌い
ただ三つ下の妹律は父の実家佐伯家の気質を受け継いでいると思っていたようです。「佐伯風といふのは、親類中にも一際目立つゐたと見えて、又た佐伯風だな、などよく言つてゐました。何でも曲がつたことのきらひな、真ッ正直と言つた堅苦しい気分でした」(「家庭より観たる子規」)。
「家庭より観たる子規」は、昭和8年に律と子規の思い出を語り合った内容を河東碧梧桐が記したものですが、いきなり「佐伯風」の強烈な逸話が紹介されています。
たとえお漏らししても!
碧梧桐が最初に発した誰も知らない幼少時の話はないか?との質問に対して律は次のような話をぶっちゃけています。子規は五歳の時から父の実家佐伯の伯父政房に手習いに通っていました。そのころの話です。「或時、伯父が不在で、しばらく待ってゐる中居合した従兄-名は正直(注・おそらく政直)を兄さん兄さんと呼んでゐました-が、俺が教へてやらうと言つた。お帰りまで待つてゐます。と言つてきかず、そんなら、そこお動きなよ、と言はれて、可なりな時間、ぢつと坐つたきりでゐました。やつと伯父が帰つて、サア教へてあげようと兄の様子を見ると変だし、又た部屋中が妙に臭い。升さんどうかおしたか、と言っても急に返事もしない筈、べつとりと大便をしてゐたさうで、あとで、どうしてあんなことをしたのか、と詰問すると、それでも、そこお動きなよ、と言われたからだ、とい言つたさうです」
なんという意地っ張り!「自分が教えを請うのは伯父である」と筋を曲げず、「ではそこを動くな」と言われればテコでも動かない真っ正直な振る舞い。5歳の子にできることではありません。
うーん、「父の墓」という詩について書こうと思ったのに全然違う話になりました。全集を読んでると「この話も、あの話も」と思ってしまって…。
※前回、子規の家族・親族のことをざっと紹介しましたが、曾祖母のことが抜けていました。曾祖父常武の後妻で、子規のことを大変かわいがり、自慢でもあったようです。子規21歳の時に亡くなりますが、子規の母八重は「升(子規)には目も鼻もないやうにやさしうしまして、それはそれはえらい自慢をしよりました。まアあんな自慢がよう言へる事よと思ふやうな事を言ひまして 升も其曾祖母にはよくなついて居りました」(母堂の談話)、妹律も「育ての親」と言っていいぐらい世話になったと語り残しています(家庭より観たる子規)。
亡くなった際には子規も懐かしみ、帰郷時に墓参して見つけられなかったことなどを俳句にしたり、彼女のことを思った詩を作ったりしています。
主な参考文献「子規全集」(講談社)10巻、22巻、別巻2
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