はじめまして
みなさんは正岡子規をご存じですよね?明治時代を代表する文学者の一人。坊主頭の横顔写真のあの人です。「病床六尺、それが我が世界である」。子規は結核と脊椎カリエスを患い、晩年は寝たきり生活を送ることになりました。布団1枚の広さで最後まで書き続け、35歳の若さで亡くなりました。その短い人生の中で俳句や短歌の革新など、後世に残る仕事をたくさんやった人です。私は子規が大好きなのですが、ご存じのとおり、彼は今年の10月で生誕150年を迎えます。親友だった夏目漱石ともども150年です。節目の年にちなんで子規のあれこれを書いてみたいと思います。どうかよろしくお願いします。
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子規は慶応3(1867)年9月17日(新暦10月14日)、松山市に生まれました。父親は松山藩の下級藩士。本名は常規。幼名は升(のぼる)。近しい人からは「のぼさん」と呼ばれていました。亡くなったのは明治35(1902)年9月19日でした。命日は「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」などの絶筆3句にちなんで糸瓜忌と呼ばれています。
子規には多彩な側面があり、何から書いていけばいいのやらと悩んでしまいますが、私がもっとも感心したのは自分を客観的にみる力です。初めて喀血した時の行動にもそれがよく表れています。
喀血! 子規と名乗る
子規は明治22年5月9日夜、大量に喀血します。診断は結核。翌日の夜、また血を吐きました。結核は当時、不治の病とされていました。とてつもない絶望に包まれたことは想像に難くありません。そんなときに子規がやったのは俳句を作ることでした。「卯の花をめがけてきたか時鳥」
「卯の花の散るまでなくか子規」
時鳥、子規はホトトギス。赤い口を開けて鳴くところが血を吐く様子に似ているということから「啼いて血を吐くホトトギス」と言われ、結核患者の代名詞だったそうです。
結核患者となった自分をホトトギスに見立てた子規はこの時、ホトトギスの句を四、五十句も作ったと言い、「子規」と名乗るようになります。青春まっただ中の自分を襲った病気。絶望や悔しさ、整理のつかない気持ちを好きな俳句に託して自分を取り戻そうとしたのでしょうか。いずれにしても尋常な精神でできることではないでしょう。
気遣う漱石
子規の喀血は1週間近く続きました。子規を見舞った漱石は帰りに医師を訪ねて療養方法を聞いています。優しいですね。それを子規に伝える手紙には「帰らふと泣かずに笑へ時鳥」
「聞かふとて誰も待たぬに時鳥」
という俳句を添えて「母のためにも自愛するように」と励ましました。泣かせる話。優しいですね。
喀血の話、1度にまとめるつもりでしたが、無理でした。ではまた。
参考文献「子規全集(講談社)」第9巻、22巻、「漱石・子規往復書簡集」(岩波文庫)