2017年05月13日

子規山脈②大原観山・加藤拓川

大原観山(1818-1875)

子規の母八重の父、外祖父。本名は有恒。儒学者。幕府直轄の昌平黌(しょうへいこう)の舎長、松山藩の藩校明教館の教授を務めました。明治維新後は私塾を開き、子規も漢文の素読を観山に学びました。

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子規を愛した祖父

観山は子規をかわいがり、訓育に力を注いだようで。母八重は「升はなんぼたんと教えてやつても覚えるけれ、教えてやるのがたのしみじゃと言うておりました」(母堂の談話)と語り残しています。

祖父のような学者になる!

観山は子規が数えて九歳の時になくなりますが、子規の人格形成や志向に大きな影響を与えたようです。子規は観山について「筆まか勢」第一編「当惜分陰」でこのように書いています。

余幼より懶惰、学を修めず。八、九歳の頃、観山翁余を誡めて「余の幼なる時も汝程は遊ばざりし」といはれし時には多少の感触を起こしたり。翁は一藩の儒宗にして人の尊敬する所たり。余常に之を見聞する故に後来学者となりて翁の右に出んと思へり。

人の尊敬を集める祖父のような学者になりたい。子規にそう思わせる存在でした。子規も立派に祖父の期待に応えたと言っていいですね。

敬愛し続けた子規

ちなみに子規は西洋嫌いの観山の言いつけで髷を結ったまま小学校に通っていましたが、観山自身も終生髷で通したそうです。観山は子規のために七言絶句を書いたことがありました。その結句は「終生不読蟹行書」というものでした。終生、蟹行書(かいこうしょ)を読まず。西洋文字は死ぬまで読まない。西洋嫌いも徹底していますね。ただ子規のはとこ、観山の甥三並良の「子規の幼年時代」(講談社「子規全集」別巻三)には、西洋事情に通じておくことは必要だと考えており、西洋事情を書いた書を何冊も筆者していたという逸話が紹介されています。

子規は、観山二十五回忌の年にあたる明治32(1900)年に書いた「室内の什物」(講談社子規全集十二巻)という短い随筆で最初にこの句が書かれた軸のことを取り上げ、「御面影を忘れたることこそ悲しくはかなけれ」と書き、句を詠みました。

軸掛けて椿活けたる忌日かな

加藤拓川(1859-1923)

観山の三男。子規の叔父。本名恒忠。外交官、政治家。のちに廃絶していた加藤家の当主となったので名字が違います。

外交官、政治家として活躍

父の死後上京し司法省学校でフランス語と法律を学びましたが、校長に反発し、中江兆民に師事。フランス留学後、外務省に入り、ベルギー公使などを歴任し、衆議院議員や松山市長も務めました。

子規の上京を許可 陸羯南に紹介

子規の上京希望を叶えたのは彼です。明治16(1883)年フランス留学が決まり、子規の上京を認め呼び寄せました。子規の夢を開く重要な役割を果たしました。子規が上京すると友人陸羯南に紹介し、世話を頼みました。ます。羯南はのちに日本新聞の社長となった人で、やがて子規にとってはなくてはならない人となっていきます。日本新聞に子規を雇い入れ、終生親身に面倒をみました。

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posted by むう at 20:30| Comment(0) | 周辺の人々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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