正岡八重(1845-1927)
子規の母。明治5年、夫常尚が死去してからは実家大原家の庇護を受けながら裁縫を教えるなどして子規と彼の妹律を育てました。スポンサーリンク
毎年よ彼岸の入りに寒いのは
明治25(1892)年、子規の看護のため律と上京し、子規の病床生活を支えました。「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」。子規との会話で発した言葉がそのまま俳句になったという話はよく知られていますよね。律によれば、何事にも驚かない泰然自若とした人だったそうです。もういっぺん痛いと言うておみ
子規が亡くなった際、体を起こし「さあ、もういっぺん痛いと言うておみ」と言ったそうです。昔、東京・田端の大龍寺にある子規の墓を尋ねたら隣に八重さんのお墓がありました。正岡律(1870-1941)
子規の3歳下の妹。小さい頃は活発で子規がいじめられると彼女が仕返ししていたそうです。子規の看護師
明治25年、母とともに上京し、子規の看護に努めました。子規没後は共立女子職業学校(現共立女子大)に学び、卒業後は裁縫の教師となりました。母が亡くなると退職。子規庵で裁縫教室を開いて生計を立てたそうです。正岡家を継ぐ
正岡家の家督を継いだのは彼女で、のちに加藤拓川の三男忠三郎を養子に迎えました。子規庵保存会の初代理事長です。河東碧梧桐との対談「家庭より観たる子規」で子規の様々な逸話を語り残しています。河東碧梧桐の「子規を語る」に収録されています。スポンサーリンク