2017年05月11日

子規と漱石①最後の手紙

僕ハモーダメニナツテシマツタ

僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ

明治34(1901)年11月6日、正岡子規が英国留学中の夏目漱石に宛てた手紙はこのような告白から始まっています。

同い年の二人の出会いは学生時代、22歳の時。互いを認め合い励まし合いながら時を重ね、病いに倒れた子規は立身出世を諦め文学者の道を、漱石は子規の影響で始めた俳句で名を上げつつも英文学者・教育者としての道を進んでいました。

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子規を喜ばせた倫敦消息

漱石が渡英したのは前年9月。官費留学でした。子規の病いは重く、互いに生きては会えないと思っていました。渡英後の漱石は日本から送られてくる「ホトトギス」で子規の消息を確認していたようで、明治34年1月22日付の日記に「ほとゝぎす届く子規尚生きてあり」と書いています。

そして漱石は4月に子規、高浜虚子宛てにロンドンでの暮らしぶりを日記風につづった長文の手紙を送ります。3通目の26日付の最後には「我が輩は慰めんが為に此の日記を書きつゝある」と記しています。子規はこれを非常に喜び「ホトトギス」に「倫敦消息」として掲載しました。

号泣また号泣

こうした経過を経て子規は1年半ぶりに漱石に手紙を書いたのでした。この時期、子規の病状はひどく悪化。手紙執筆のひと月前の10月5日付の日記「仰臥漫録」に、急に精神が高ぶり、半ば狂乱状態に陥ったことが記されています。漱石へ手紙に「新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止」とあるように、「仰臥漫録」10月28日付には「痛み堪へがたく号泣また号泣困難を窮む」と書き、翌29日は「曇」と天候を記したのみで翌年3月まで「仰臥漫録」の執筆は中断することとなりました。

僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー

こんな状態にあった子規ですが、漱石からの手紙を思い出し、このように書いています。

イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヤウナ気ニナツテ愉快デタマラヌ。

「僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー」。病身をおして日清戦争の従軍記者になったのが子規。好奇心旺盛な自分が西洋を見るどころか、「病牀六尺」の世界に閉じ込められ、心身ともに弱り切っている。漱石がうらやましくてたまらなかったでしょう。子規のこの言葉を漱石はどう受け止めたでしょうか。

実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ

子規には自殺願望も生じていました。手紙の最後はこう締めくくられています。

実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ

「古白曰来(こはくいわくきたれ)」。古白は子規の4歳年下のいとこで俳人の藤野古白。明治24年23歳でピストル自殺しました。その古白が「来い」と呼びかけている。10月14日付「仰臥漫録」には鬼気迫る筆致で自死へと揺れる心の動きを書きとめ、「古白曰来」と大書し、自殺に使おうと考えた小刀と千枚通しの絵を描いています。絶えず痛みに苦しめられ、死の誘惑に負けそうにもなる。誰にも言えない苦悩も漱石になら言うことができたのです。

倫敦ノ焼キ芋ノ味ハドンナカ聞キタイ

何気ないこの一言が私にはぐっと来るのですが、それはそれとして子規はまた手紙をよこしてくれと頼みます。

僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ

最後の手紙

漱石は12月18日付で子規あてに手紙を出しました。子規の手紙を受け取ってから書いたようですが、とてもそうは思えないほどそっけない。4月と同じようにロンドンでの様子を淡々と書いただけでした。

神経質な漱石には子規にかけてやるべき言葉を選べなかったのか。神経衰弱に悩んでいた漱石には子規の命の叫びはあまりにも重いものだったということだったのでしょうか。これが二人の最後のやりとりとなりました。

慚愧の至に候

1年後、漱石は子規の訃報を高浜虚子から受け取りました。音信を途絶えさせたままだった漱石のショックはいかばかりだったか。虚子への返書には次のように書いています。

小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と存候。これは双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致。只々気の毒と申より外なく候。但しかかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候。

このように書く漱石は、何か書いて送りたかったが、なかなか筆を取ることができず、ついつい無沙汰をしている間に子規が亡くなってしまった、申し訳ないと続け「亡友に対しても慚愧の至に候」と書いています。

筒袖や秋の柩にしたがはず

虚子からは生前の子規の思い出を書いてくれと求められていたのですが、漱石は書くことができず、追悼句を送りました。

筒袖や秋の柩にしたがはず
手向くべき線香もなくて暮の秋
霧黄なる市に動くや影法師
きりぎりすの昔を忍び帰るべし
招かざる薄すすきに帰り来る人ぞ

筒袖(洋服)を着て洋行中の自分は葬儀にも連なることができない、手向ける線香もない…漱石の忸怩たる思いがうかがえます。そして子規が亡くなってから3年後、明治38(1905)年、漱石は「ホトトギス」に「吾輩は猫である」を発表し作家デビューを果たします。翌年、単行本化された中編の「序」に今回取り上げた子規の手紙の全文を紹介し、追悼しています。

いきなりクライマックスの話を書いてしまいました。二人がどのように友情を育んでいったのか。おいおいたどってまいります。

参考文献 「漱石・子規往復書簡集(岩波文庫)」、「子規全集(講談社)」11、22巻



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posted by むう at 09:00| Comment(0) | 子規と漱石 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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