2017年07月27日

御存知ですか?書籍の検印制度 文豪たちの地味で重要なお仕事


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改造社「子規全集」第四巻の奥付

みなさんは書籍の「検印」を御存知でしょうか?古い本の奥付に、印を押した小さな用紙が貼られているアレです。

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不正防止のため一冊一冊に押印

これは、明治時代に近代的な出版制度が整えられていく過程で出来たシステムで、出来上がった本の著者が制作部数を確認するために用紙に印を押し、用紙を貼り付けていました。出版社が著者と取り決めた以上の部数を発行して不正に利益を得ることを防ぐためのものでした。当時の地方では東京などで発行された書籍をコピーした廉価な海賊版が出回ることもあったようで、検印は正規に発行された本の証明でもありました。海賊版はよく売れたらしく、面倒な作業であっても不正販売への対抗措置として必要とみなされていたようです。

とはいえ著者にとっては大変な作業です。建前では著者本人が印を押すことになっていましたが、当然、家族も手伝ったでしょう。出版社の社員が手伝うこともあったそうです。昭和30年前後に徐々に廃止されていったそうですが、100万部、200万部のベストセラーなんてことになったらどれぐらい大変な作業になるのか想像もつきません。

「俳諧大要」は3千部

子規の出世作「俳諧大要」が「ほとゝぎす発行所」から刊行されたのは,
「日本」「海南新聞」での連載から3年余り経った明治32(1899)年1月。部数は3千部でした。松山で柳原極堂が発行していた「ほとゝぎす」を高浜虚子が引き継ぎ、東京で新「ホトトギス」の発行が始まったのが前年の10月。子規も虚子ら周囲の人々もバタバタしていたはずですが、合間を縫って検印の地味な作業を手分けしてやっていたのでしょうか?私は母八重や妹の律がかなり押していたんじゃないかと想像するのですが、どうでしょう?

昭和の子規全集にも

我が家にある子規のもっとも古い本は、冒頭写真の改造社版子規全集第四巻(全22巻、第4巻は昭和5年8月発行)。これは大正後期にアルスから出た全集のリニューアルみたいなものらしく、編集委員も河東碧梧桐、高浜虚子、香取秀真、寒川鼠骨という同じ面々になっています(実務の中心は柴田宵曲。ホトトギス社員の時に虚子らの句会メモを作るのがうまく次第に重宝され、鼠骨に師事。岩波文庫「評伝正岡子規」の著者)。

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検印のアップ。文字なのかデザインなのか、どっちでしょう?


子規の母八重は本書発行の3年前に亡くなっていますが、律は60歳で健在。子規没後、律は共立女子職業学校(現共立女子学園)に入学し、卒業後は母校の教員になりました。大正3年に加藤拓川の三男忠三郎を養子に迎え、同10年に退職。母の看病の傍ら子規庵で裁縫教室を開いて生計を立て、昭和3年に子規庵保存会初代理事長に就任しました。

昭和4年から始まった改造社の全集発行は、子規没後、弟子や周辺の人々にいろんな考えがある中で鼠骨が中心になって進めてきた正岡家の生計支援や子規庵保全活動を目的にした遺墨販売や書籍刊行の流れの中で行われたものです。検印は誰が押したのか。後に訴訟に発展した鼠骨と忠三郎の間には既に隙間風が吹き始めていたようで、正岡家はノータッチだったかもしれず、単なる想像になりますが、鼠骨にこき使われた宵曲あたりが必死に押していたかもしれません。

中勘助の「検印」

何だか微妙な話になりそうなので軌道修正。ともあれ近代の文学者にとって欠かせない作業だった検印。「重労働」だったかもしれませんが、この作業の喜びを詩にしたのが「銀の匙」の中勘助(夏目漱石の教え子の1人)です。タイトルもずばり「検印」。世渡り下手な自分のことを心配したまま亡くなった父に捧げた詩です。

やつと筆一本でくらしてゐるのを知つたら
父は安堵の胸をさするだらうか
思ひがけずでた「銀の匙」の十二版
嘘やまことの古い追憶
どうぞこの一万五千の検印が
つぎつぎ極楽の蓮華とさくやうにと
またもやさすらひの田舎住まひ
しんみり机にむかつて
こつこつとはんこをおす

※岩波文庫「中勘助詩集より」

ちなみに検印に凝った人もけっこういたらしいです。オシャレなのがないか探してみましたが、すぐに見つからなかったので比較的鮮明な印を選んでみました。

宇野浩二です。分かりやすい!

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中野重治もシンプル。昭和37年でも検印していたんですね。

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posted by むう at 21:41| Comment(2) | 生誕150年その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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