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子規の小説家志望に引導を渡した露伴
明治25(1892)年、子規は渾身の小説「月の都」を書き上げ、「五重塔」の連載を始めるなど、すでに文壇で活躍中だった露伴に出版のあっせんと批評を乞います。評価は今ひとつで子規は意気消沈。小説家を断念し俳句に懸ける決意をしたことはよく知られているかと思います。「日本派」に対抗した俳人紅葉
「金色夜叉」の尾崎紅葉は俳句も作りました。表現を凝縮させる手法や句を作るときの観察力が小説にも生かせると考えたらしいです。子規の「日本派」に対抗して結社「秋声会」をつくり、泉鏡花ら門下の小説家たちを指導しました。「明治の滑稽家」子規と外骨
「滑稽新聞」で知られるジャーナリスト宮武外骨は明治36(1903)年に出版された「明治奇人伝」の中で子規とともに「滑稽家」としてリスト入りしていたらしいです。「小日本」に小説を掲載した緑雨
辛辣な批評家、作家として活躍した斎藤緑雨のことはよく知らないのですが、高浜虚子の「子規居士と余」には、子規が編集を任されていた「小日本」に時代物小説を載せたことがあったと書かれています。この人は子規の死の2年後、明治37年に亡くなりますが、死の直前に自分の死亡広告を出しています。変わった人だったようですね。予備門の同窓生熊楠
無理矢理、子規とのつながりを探している感じですが、南方熊楠は大学予備門で同窓だったころの思い出を河東碧梧桐に語り残しています。子規と熊楠は肌合いが真逆の大将肌のキャラクターだったようで、次のように語っています。煎餅をかじっては句をひねる
当時正岡は煎餅党、僕はビール党だった。もっとも書生でビールを飲むなどの贅沢を知っておるものは少なかった。煎餅を齧ってはやれ詩を作るの句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分れて、正岡と僕とは各々一方の大将顔をしていた。今の海軍大佐の秋山真之などは、始めは正岡党だったが、後には僕党に降参して来たことなどもある。イヤ正岡は勉強家だった。そうして僕等とは違っておとなしい美少年だったよ。面白いというても何だが、今に記憶に存しておるのは、清水何とかいう男の死んだ時だ、やはり君の国の男だ、正岡が葬式をしてやるというので僕等も会葬したが、どこの寺だったか、引導を渡して貰ってから、葬式の費用が足らぬというので、坊主に葬式料をまけて呉れと言ったことがあった、と腹のド底から出るような声でハッハッと笑う。(河東碧梧桐「続三千里」)現在、子規庵で開かれている記念展示「慶応三年異能ボーイズ」では緑雨にかわって柳原極堂が入っています。子規関係でくくるならやはり極堂になりますよね。
※熊楠の話に出てくる清水は、子規の幼なじみ清水則遠(のりとお)。上京後、子規と同じ下宿に住んでいましたが、明治19(1886)年4月、脚気が悪化し急死しました。子規は喪主となり、葬儀には秋山真之、柳原極堂、三並良、太田正躬、竹村鍛など同郷の友人ら30人余りが参列しました。子規は四十九日の間、位牌を祭り、友の死を悼みました。
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