
子規の俳句革新支える
松山市の井手神社というところに柳原極堂の句碑ができました。極堂は子規と同年生まれの友人。子規存命中は「ほとゝぎす」を創刊するなど、その活動を支え、子規没後は顕彰活動に尽力した人です。「友人子規」を書いたことでも知られていますね。スポンサーリンク
中学時代からの「文友」
極堂と子規は中学時代からの友人で、子規は極堂を「文友」と称しました。子規と同時期に上京しますが、学業半ばで帰郷。松山の「海南新聞」の記者になり、明治28年、子規が病気療養のため帰省し、夏目漱石の下宿愚陀仏庵で過ごした時には日参組の一人となり俳句指導を受けました。海南新聞に子規選の俳句欄を設けて子規の俳句革新に協力。明治30年に創刊した「ほとゝぎす」は新聞社で印刷していたそうです。のちに新聞社を経営したり、政治家になったりもしました。今も活動中の松山子規会の発足にも貢献したそうです。吾生はへちまのつるの行き処
句碑は生誕150年を記念して松山極堂会が寄付を募って建立しました。4月30日に除幕式があったそうです。碑に刻まれた「吾生はへちまのつるの行き処」。辞世の句だそうです。へちまは子規のことですね。彼の人生を凝縮したような句ですね。一部を除いて子規周辺の人々にはスポットが当たりにくいですが、極堂は同年生まれということで得をしましたね(笑)。彼がいなければ子規の俳句革新があれだけのペースで進められたかどうか。全然違ったものになっていたかもしれない。そういう点でもっと注目されてもいい人物だと思います。
子規の句碑と一緒に
極堂は神社の近くに住んでいたそうですが、子規の家もこの近くで、子供のころの子規は、この神社に遊びに来ていました。境内には子規の句碑「薫風や大文字を吹く神の杜」もあります。2人のゆかりの地にともに句碑が建ってよかったですね。新しくできた極堂の句碑は境内に入ってすぐ右手の目立つところに建てられました。子規の句碑は左側の少し奥まったところに建っています。知らなければ気づかないこともありそうです。
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