2017年05月07日

子規の俳句①鶏頭の十四五本もありぬべし

鶏頭の十四五本もありぬべし

子規について書くなら俳句や短歌のこともやっぱり書かないといけないのかな?と、ブログを始めてから気になりつつ踏み込めずにいました。でもせっかくなので自分自身の勉強と思って何か書いていこうと思います。

といっても俳句も短歌も素人。実作ができるわけもなく、鑑賞力も何もあったものではありません。そういう奴が書いていることを念頭に置いてお読みください。

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子規の俳句なんて…

少し前のこと。俳句を長年作ってこられた方とお話する機会がありました。その人は「子規の俳句なんて」と、けんもほろろ。全否定の勢いなのです。話を聞いていると現代俳句協会で研鑽をつまれた方でした。詳しいわけではないのですが、現代俳句協会と言えば無季有季は問わず、自由律もOK。ただ有季定型の人たちが出て行った歴史があるから有季定型の源流となった子規にいい印象持っていない人もいるのでしょうか。

そこまで否定的になるものなのかと面食らいながらも私の意見も述べました。子規は、芭蕉だからと言って何でもありがたがるなと言った。子規だからと言って全否定はいかがなものか。誰にだっていい句も悪い句もあるのでは?そう言うと理解してくれましたけど。この出来事が子規の作品をよく見てみようと思うきっかけにもなりました。

俳句2万4千句 短歌2千五百首!

子規の俳句は約2万4千句。短歌は約2千5百首。子規は芭蕉の千句のうち、いい句は200句と言いました。子規の場合、どうなんでしょう?子規流に作品網羅して判断下した人いるのでしょうか?それはさておき、私の大雑把な理解では、子規は技巧や理屈を嫌い、ありのまま素直に詠むことをよしとしていたと思います。

論争に発展

さて、今回の句。昔、教科書で読んだような記憶がありますが、そのまんまですよね。明治33(1900)年、最晩年の作。子規庵の句会で出された句です。句会での評価は高くなく、のちに賛否をめぐって「鶏頭論争」と呼ばれるほどの議論を巻き起こしました。今も評価が定まっているのか不勉強なのでよく分かりません。

作者像も含めて味わう

子規の作であることと、当時の子規の状況を踏まえなければ、それがどうしたんだと言われそうな句ですよね。でも誰もが子規の作品として読むわけで、私は解釈に前提が入るという味わい方でもいいように思います。

炎のような鮮やかなあの鶏頭の色に、寝たきりで弱り切った子規が心を惹かれた。生命力、力強さを感じていたからでしょう。いいじゃないですか。いつも泣いて、うめいて、叫んでいたんですよ。そんな人が寝たきりで庭先に見える鶏頭が咲いているのをいいなって思って何がいけないの。草花を眺めるのが楽しみだったんだよ。ぼろくそ言わなくてもいいじゃないか。それぐらい分かってあげて!と思ってしまいます。

とはいえ、作者不明の状態で選句する句会で評価が低かったということは、やはり作品としては今ひとつということになるのでしょうか。うーん、考えていたら一人鶏頭論争になってしまいそう…

ドクターケイト!

ちなみになんですが、子供のころは仮面ライダー「ストロンガー」のドクターケイトの印象が強烈で鶏頭と聞くとすぐそっちを連想してしまっていました。ストロンガーの電気技が効かない。毒の達人。だからある時期まで鶏頭には毒があると思い込んでいて鶏頭の花にも子規の句にもなかなか馴染めませんでした(笑)

ここまで書いておいてなんですが、この時期に、この句を取り上げるのは季節感ないですね。有名な句だから書きやすいということではなくて本当にこの句が浮かんで…今後はできるだけ季節を踏まえるように努めます。

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posted by むう at 04:31| Comment(0) | 子規の俳句・短歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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