子規・漱石 愚陀仏庵の52日①失意の帰郷
2017年08月29日

子規・漱石 愚陀仏庵の52日①失意の帰郷


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講談社「子規全集」12巻より

みなさん、こんにちは。いつもご訪問ありがとうございます。今日は8月29日。正岡子規と夏目漱石が松山の愚陀仏庵で同居生活を始めて3日目に当たります。

2人が共に過ごしたのは明治28(1895)年です。27日にツイッターで呟いた通り、そのことに気づいていたのですが、書きそびれてしまって文体診断の話を書いてみたら「そういう話はいらない」と、お叱りを受けてしまいました。「たまに脱線するのは許してよ」という気持ちもありますが、こんな弱小ブログを熱心に読んでくださる方の存在は本当にありがたいこと。改めて愚陀仏庵の話を書いてみようと思い立った次第です。前置きが長くなりましたが、しばらく愚陀仏庵シリーズを続けてみますのでよろしくお願いします。

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矢も楯もたまらず従軍

子規が、松山に帰ったのは明治28年8月25日。何で帰ったか。体を悪くしたからです。一時は命も危ぶまれるほどでした。何でそんな目に?無茶をしたんです。

新聞「日本」の記者だった子規はこの年4月、日清戦争の従軍記者として中国に渡りました。結核を患っているのですから、周りはみんな止めましたが、頑として聞きませんでした。五百木飄亭(「日本」の同僚)や河東可全(碧梧桐の兄、子規が後年墓誌銘を送った相手)ら松山出身の友人、画家で書家の中村不折も従軍中でじっとしていられなかったんですね。

当時の感覚では日清戦争自体が国家的壮挙。戦場記者になるというのも同様の感覚で捉えられていました。名を上げるのはこの時をおいて他にない。子規は命がけでこの仕事に挑戦する覚悟を固めていました。だから3月に一度帰郷し、墓参りを済ませています。

この時、友人だけじゃなく旧藩主にも送別会を開いてもらい、刀を拝領しています。冒頭の凛々しい写真はこの時に撮影したものです。

送別会が3月30日。それから出港地の宇品へ向かいました。途中、これまで子規の病気を診てきた医師に遭遇し、従軍を諫められますが、今さら引き返すはずがありませんよね。子規は引き返すどころか焦っていました。実は送別会の日に休戦条約が結ばれたんです。だから4月5日付の叔父大原恒徳への手紙では「講和が成立しそう。早く日本を離れたい」と書いています。

10日に宇品を出発と決まったのですが、出発前日、非常にショッキングな報せを受け取ります。仲良しの従兄弟藤野古白が自殺を図ったというのです。古白は12日に亡くなりますが、子規は詳しい事情を知ることもできず船上の人となりました。

上陸直後に講和 為すことなし

現地に到着したのは4月15日。2日後には講和条約が結ばれ、来たばっかりというのに「あしは何しに来たんだろう」という気持ちが生じていたでしょう。

子規は記録魔ですから自分の行動をつぶさに記録していました。出発直前からのドキュメントを「陣中日記」と題して新聞「日本」に現地から送っていました。出発前に詠んだこういう歌も載せています。

かへらしとちかふ心や梓弓矢立たはさみ首途すわれは

「かえらし」は帰らじ、「たはさみ」は手挟み。矢立は携帯筆記道具。首途は門出。張り切っていたのがよく分かりますよね。だけど、実際にはあんまりすることもないわけで、砲台や魚雷製造所を見学したり、勇ましい俳句をつくってみたり。現地に着いて1週間後の「陣中日記」21日の項は1行のみです。

今日も芝居見物に暮らせり

訃報にショック

軍部の記者に対する扱いの悪さにも辟易して情けない気持ちになってしまったところに古白自殺の詳報が届きます。これが子規をさらに凹ませました。古白は子規の4つ下ですが、俳句も作れば、小説も戯曲も書く。幼いころから馬が合があったんですね。「陣中日記」に「一字一句肝つぶれ胸ふたがりて我にもあらぬ心地す」と心境を書き、従兄弟の思い出を綴っています。

春や昔古白といへる男あり

暗澹たる気持ちで詠んだ追悼句です。子規はこの日に帰国を決意しました。

でも、ただでは帰りません。翌日、参謀部で帰国の許可を求めると同時に、記者への扱いの不当さを訴えます。この軍部の無理解について子規は後にきちんと記事化し、報道の重要性を説いています。

子規はすぐにも帰るつもりでしたが、天候悪化もあって滞在が延びました。おかげで鴎外と交流を結ぶことができました。せめてもの収穫といったところでしょうか。

大喀血 命からがら帰国

5月15日、子規は帰国の船に乗りました。ここから悪夢の日々が始まります。2日後喀血。18日下関着。19日検疫。20日船内で軍夫がコレラで死亡、1週間の停船決定-という具合です。「陣中日記」には20日「吾病稍(やや)劇し」、22日「病漸く重し」と完結に記していますが、明治32年に書いた「病」には、この時の様子を詳しく書いています。コレラに罹ったのではないかと不安になるし、喀血も止まらない。吐き出す器もないから血を飲み込む。具合は悪くなる一方でした。23日に和田岬に上陸した時には歩く度に血を吐くほど。記者仲間の手配で神戸病院に運ばれた子規は一時、重篤状態に陥りながら何とか持ち直し、7月下旬に退院。須磨で療養生活に入りました。

入院中は母八重、虚子、碧梧桐らの看護を受けていました。先に紹介した「病」は、虚子たちがやって来ることが決まったところまでの経緯を書いています。問題はその最後の一文。子規は「これが自分の病気のそもそもの発端である」と書いています。

学生時代に喀血が始まったけれど、本当に命を縮めることになったのはこの時。死の自覚を明確に持ったのですね。だから、この入院中に虚子に後継者になってくれと打診もしています。

強烈な挫折感

3月の晴れやかな気持ちから、たった数カ月ですっかりボロボロになってしまった子規。あちこちに手紙を書いていますが、心中、誰にも言いようのない挫折感を味わっていたことでしょう。政治家になりたい。小説家になりたい。記者として名を上げたい。全部ダメ。何をやってもうまく行かない。

「陣中日記」の最終回は帰国から2カ月後の7月23日に掲載されました。冒頭には子規の虚しい胸中が綴られています。

一生の晴れに一度は見んと思ひし戦ひも止みて梓弓張りつめし心も弱りすごすごと袖を連ねての帰り道はしなくいたつきに煩はされて船の中に送る日数苦しかりしを世は情とやら連れ立ちし誰彼に助けられ千早振る神戸の里に命を拾ひぬ

すでに着手をしていたとはいえ、この時期から俳句革新へとひた走るのは、もはや俳句にすがるしかないという諦めが、今まで以上の本当の意味での命がけの覚悟に転じたからだったのではないでしょうか。

漱石の手紙

そういう子規に、友人知人から病状を気遣う手紙が届きます。当然、松山にいた漱石も送っています。

漱石は「結婚か放蕩か読書のどれかを選ばなければやっていられない」と、つまらない日々を送っていることを強調し、ついでに当地の人柄に対する不満も述べた上で、俳句に興味を持ち始めたので「御高示を仰ぎ度候」と書き添え、保養がてらちょっと帰国しないかと誘っています。

失意のどん底にいた子規には魅力的な提案だったでしょうし、くすぶっていた漱石にも、いかんともしがたいモヤモヤを子規が吹き飛ばしてくれるという思いがあったでしょう。愚陀仏庵の52日は、漱石が残した楽しすぎる談話(「正岡の食意地の張つた話か。はゝゝゝ」で始まるあれです)のせいで、何だかおもしろおかしい日々だったような印象を持たれがちですが、実際の2人は、心の底に「どうも人生上手く行かないな」という失意、あるいは不満を募らせていたのです。

子規の志通りに事が運んでいれば愚陀仏庵の同居生活はなかった。実に不思議な縁というほかありませんが、この期間は、子規にとっては俳句の革新者へと飛躍するきっかけに、俳句の妙味を知った漱石にとっては子規と同じ表現者へと進む原点となりました。

子規を待ちわびていた漱石

愚陀仏庵の前段だけで終えるのもあれなので、少しぐらい触れておきます。漱石は例の談話で子規が自分の下宿に来ることになった経緯を次のように語っています。

自分のうちへ行くのかと思ったら自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、此処に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに当人一人で極めて居る

ですが、当時の漱石は子規が帰ってきたと聞いて、すぐにこんな手紙を出しています。

御不都合なくば是より直に御出あり度候 尤も荷物抔御取纏め方に時間取り候はゞ後より送るとして身体丈御出向如何に御座候や

「荷物なんか後でいいから、すぐ来てよ」。文面に待ちきれない気持ちがはっきり出ています。どれだけ待っていたんだよって思いますよね。

漱石のあの談話は子規らしさがよく伝わってくるので大好きなんですが、かなり脚色も入っているようです。漱石と同じように子規の帰郷を待っていた柳原極堂が「盛りすぎだろ」と突っ込んでいます。そのあたりも追々紹介していきたいと思います。ではでは。長くなりましたが、またよろしくお願いします。
参考文献 講談社「子規全集」12、22、別巻1、別巻2。本文中の引用は全て子規全集から

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posted by むう at 03:44| Comment(0) | 子規と漱石 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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