講談社「子規全集」第18巻より
夏の全国高校野球は8日に延期になりましたが、正岡子規とベースボールの続きです。野球の普及に対する子規の貢献と言えば、用語の翻訳やルールの紹介をしたこと点が挙げられます。2002年に野球殿堂入りしたことで詳しく知った方も多いのではないかと思います。
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母校の快挙に発奮
前回書いたように学生時代にベースボールに打ち込んだ子規は明治23年に一高を卒業、帝大に進みましたが26年3月に中退。新聞「日本」の記者になりました(出社は前年末から)。随筆「松羅玉液」(題名は愛用の墨にちなむ)で野球を取り上げたのは明治29年7月。記者の仕事や俳句革新に没頭する中で、野球に目を向けたのは母校の球史に残る活躍がきっかけでした。坂上康博著「にっぽん野球の系譜学」(青弓社)によると、この年5月23日、一高野球部は横浜のアメリカ人チームとの国際試合に臨み、29対4という大差で勝利。この歴史的快挙は新聞や電報を通じて全国に広く伝えられました。6月5日の第2戦は32対9、27日の第3戦も22対6で圧勝しました。7月4日の第4戦は12対14で惜敗しましたが、その報せは子規を大いに刺激しました。
「松羅玉液」で野球を取り上げたのは7月19日付が最初。子規は「近時第一高等学校と在横浜米人との間に仕合ありしより以来ベースボールといふ語は端なく世人の耳に入りたり。されどもベースボールの何たるやは殆ど之を知る人無かるべし」と記しています。野球はアメリカの国技のようなもの。日本でいう相撲と同じで「米人の吾に負けたるをくやしがりて幾度も仕合を挑むは殆ど国辱とも思へばなるべし」と書く当たりにも子規の興奮がうかがえます。
ルールを丁寧に紹介
「昔取った杵柄。よし、ここは一つ、あしがベースボールの何たるかを紹介しよう」と意気込んだ子規は19日、23日、27日の3回にわたってベースボールの来歴やルールを細かく解説しました。ただ来歴については明治14、15年頃、平岡煕が伝えたようだと書いてしまい、「明治初期にウイルソンが伝えたのが正しい」と誤りを指摘する投書が来たらしいです。子規は、ベースボールの競技場(図付き)や必要な道具を紹介し、どんな競技かを説明していきます。「勝負は小勝負九度を重ねて完結」「攻者は本基(い)より発して各基(ろ、は、に)を通過し再び本基に帰るを務めとす」などといった具合です。小勝負はイニング。本基はホームベース。「い、ろ、は、に」は競技場の図の各ベースの位置に付した記号。用語に独自の日本語をあてながら、少しでも分かりやすくしようと腐心しながら書いているのが伝わってきます。
ポジションの役割や観戦のポイントも解説
各ポジションの役割も紹介しています。ピッチャーの役割は変化球を駆使して打者の眼を欺いて悪球を打たせること。ピッチャーとキャッチャーが最重要で最も熟練を要する役目だ。野手では打球が一番転がってくるショートの任務が重い等々。野球の基本的なことがほぼ網羅されていると言っていいかと思います。子規は複雑なルールを丁寧に説明した上で「ベースボールの中心には常に球がある。この球を追いかけることが観戦のコツ」と書きます。その醍醐味を「其方法複雑にして変化多きを以て傍観者にも面白く感ぜられる。且つ所作の活発にして生気あるは此遊技の特色なり、観者をして覚えず喝采せしむる事多し」と強調しています。さらにはキャッチャーの左右か、後方で観戦した方がいいとファウルボールを想定した注意事項まで書き添えています。
バッターが打ったら一塁、三塁のどっちに走るかも知らないレベルの人に説明をした経験があるのですが、試合を観ながらでも苦労しました。野球を観たこともない、何も知識のない読者に野球の詳細を伝えようとした子規の意欲、努力にはやはり頭が下がります。
現在も使われる子規の翻訳用語
子規は最後に「ベースボール未だ訳語あらず」として、原稿を書くにあたって用語の翻訳を試みたと付記しています。だいたい直訳を充てています。ピッチャーは投者、キャッチャーは攫者、ショートストップは短遮といった具合です。他にいい訳語があれば考えてほしいと呼びかけていますが、この時に子規が使った直球、打者、走者、飛球、死球、四球などが今も使われているのは御存知の通りです。前回も書きましたが、子規は友人への書簡で「野球」という号を用いたことがあります。これは幼名「升(のぼる)」をもじって「のぼーる」と読ませたもので、明治23年3月の大谷是空あての書簡で初めて使ったとされています。明治29年段階で、自分でも「訳語がない」と言っているほどですから、子規がベースボールを「野球」と名付けたという説は誤解。「野球」という訳語を考案したのは同じ一高出身の中馬庚です。
ちなみに冒頭の有名なユニホーム姿の写真を送った相手も是空。明治24年4月の書簡で「恋知らぬ猫のふり也球あそび」というかわいい句も添えています。
野球愛を歌に
有名なベースボールの歌は明治31年の作。久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
國人ととつ國人と打ちきそふベースボールは見ればゆゝしも
若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如く者はあらじ
九つの人九つの場を占めてベースボールの始まらんとす
九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり
打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又も落ち來る人の手の中に
なかなかに打ち揚げたるはあやふかり草行く球のとゞまらなくに
打ちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きがてにする
今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸の打ち騒ぐかな
どれも子規の野球愛が伝わる歌ばかりですが、私は臨場感たっぷりの「今やかの」の歌が好きです。
愛弟子との出会いも野球
門下の双璧河東碧梧桐、高浜虚子との出会いも野球がきっかけでした。碧梧桐とは明治22年の夏、虚子とは23年の夏。いずれも帰省した時です。碧梧桐(兄の関係などで面識は以前からあった)にはキャッチボールを指導。虚子には、本場仕込みのバッティングを披露して「失敬」と気障な挨拶をかまして心をつかんだのでした(笑)。碧梧桐は「子規を語る」(岩波書店)、虚子は「回想子規・漱石」(岩波書店)所収の「子規居士と余」で、それぞれ回想しています。松山に野球が伝わったのは、子規が碧梧桐に野球を教えたのが最初だと言われています。子規は碧梧桐に対しては、兄の竹村鍛(五友の一人)から道具を預かり指導を頼まれていたこともあって熱心に教えたようです。キャッチボールにとどまらず、子規の家でルール、各ポジションの役割などを図面付きで説明を受けた碧梧桐は「先生の労を多とせねばなるまい」と振り返っていますが、きっと子規は野球好きが増えることが嬉しく、楽しかったはず。東京の寄宿舎仲間にも同様のレクチャーを重ねていたに違いなく、「松羅玉液」は野球仲間を増やして言った喜びを思い出しながら書いたのではないでしょうか。
素手・素足の一高野球部
また余談になりますが、この時のキャッチボールも素手。碧梧桐の手は赤く腫れ上がったそうです。先の「日本野球の系譜学」を読むと、件の「日米野球」の時でも、まだ一高チームは素手、素足だったと書かれていて、そんな状態のチームが大勝を重ねたのかと驚きを禁じ得ませんでした。ちなみにこの当時の一高の監督が中馬庚です。さて明日から夏の全国高校野球がいよいよ始まります。子規の解説で中継を観てみたいものです。俳句の指導ぶりを思うと、プレーや監督の采配にダメ出しを連発しそうですが。
参考文献(本文に記述した資料除く)「子規全集」(講談社)第6、11,18、22巻
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