子規の短歌②雑多な題で歌会 歌人を笑わす子規先生
2017年07月20日

子規の短歌②雑多な題で歌会 歌人を笑わす子規先生

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写真は子規庵の書斎

世の中に蚤のめをとゝうたはれて妹は肥ゆ肥ゆ伕は痩せに痩す

ここのところ文アルに夢中になっていましたが、また本題に戻して今回は子規の短歌のお話です。

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内も外も敵だらけ 俳人だけで初歌会

今回の歌は明治32(1899)年8月6日の子規庵歌会に出された歌です。子規庵で初めて歌会が開かれたのは明治31年3月25日。この年2月から新聞「日本」に「歌よみに与ふる書」「百中十首」(自作をいろんな人に順番に選んでもらって発表)の発表を始め、俳句革新に続いて短歌革新に乗り出したばかりの時期です。

過激な歌論は反発を招き、さすがの子規も熊本の漱石に「内も外も敵だらけで閉口している」と愚痴をこぼすほどでした。「歌よみの如く馬鹿な、のんきなものは、またと無之候」なんて言ってケンカ売りに行っているわけですから仕方ないんですが、堪えたのは堪えたんでしょうね。そんな状況ですから初めての歌会の参加者は高浜虚子や河東碧梧桐ら俳人だけでした。この年は「ホトトギス」の東京移転などもあり、歌会自体が最初の会の後、1年間中断することになりました。

笑いが耐えない歌会

初めて歌人が参加したのが歌会再開の初回となった明治32年の3月。香取秀真、岡麓らが参加しました。最初は反発を覚えていた歌人たちが徐々に子規のもとに集まるようになっていった経緯は、秀真の回想などに詳しく書かれていて興味深いものがあるのですが、それはまたの機会にして当時の歌会の雰囲気を紹介したいと思います。秀真の回想「正岡子規」によれば、子規庵の歌会は句会と同じ要領で開かれていたそうです。

人が集まると先生が封筒の表に題を出され、それをくばり、半紙八つ切りへ各自の作を書いて入れ、順々にまはしていく。やがてあつまつたところで、一題一枚へ清書して、またまはす。今度はその中から選をする。全体の中から何首かを抜き一首を天にきめて、それには名を記しておく。採点を披露する。何点何の歌とその歌を読むと各自に作者が誰と名のる。たとへば

世の中に蚤のめをとゝうたはれて妹は肥ゆ肥ゆ伕は痩せに痩す

題が蚤でをかしいのに、この歌が一層面白いので、皆が笑ふ。すると小声で「子規」と先生が名のられる。また皆が笑ふ。かういふ事がたびたびあつて、生気溌剌和気藹々であつた。出題がふるつている。動物園、海水浴、浅草公園、万国平和会議とか、鉱山とか、撫子、舟といふのもあり、千態万様であつた。

雑多な題で

妹は妻。伕(せ)は夫。蚤の夫婦にひっかけただけの歌ですが、七七のリズムがおもしろさを引き立てています。何より秀真が言うように「蚤」を題にするところがおもしろいですよね。

優雅、幽玄の世界とはほど遠い題です。美しいものを詠うだけでいいのか。短歌の可能性を広げようとした子規らしさがうかがえます。こういう独特の試みを経て、草花など身の回りのものを愛おしむ境地へと達していったのだと思いますが、この蚤の歌のように短歌らしからぬ題で詠んだ歌にも子規らしさを見ることができるのではないでしょうか。

作者を明かす段になって小声で「子規」と名乗るところもいいですよね。ほほえましい。誰だこんな歌を作ったのはと思っているところに子規が名乗り出るわけですから、みんな笑わずにいられなかったでしょう。。この歌は歌会では4点を集めましたが、土屋文明遍の「子規歌集」(岩波書店)からは漏れています。とはいえ、子規の短歌に触れるには最適の一冊。「歌よみに与ふる書」と合わせて読めば、より理解が深まると思います。

真夜中まで

赤木格堂の「根岸短歌会」によれば、歌会は午後1時ごろから深夜零時ごろまで続くのが常で、一番熱心なのがもちろん子規で「且つ作り且つ論じ、其身の病床に在るを忘れるといふ程の御元気でありました」と振り返っています。蚤の歌をつくった日の歌会の題は全部で九つ。格堂が言うように長時間に及んだことは想像に難くありません。虚子や碧梧桐も出席しています。新参の歌人組はともかく、彼らなら「のぼさん、もう勘弁してよ」と思っていたかもしれませんね。
参考文献「子規全集」第六巻(講談社)



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posted by むう at 13:07| Comment(0) | 子規の俳句・短歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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