子規と漱石③論争!アイデアとレトリック
2017年05月19日

子規と漱石③論争!アイデアとレトリック

「七草集」と「木屑録」。互いの作品批評を通じて認め合った子規と漱石。この時期に2人の間で交わされた有名な論争があります。始終何かを書いている子規に対して漱石が苦言を呈したのがきっかけでした。

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漱石「大兄の文はなよなよとして…」

明治22(1889)年の大晦日、漱石は松山に帰省中の子規に手紙を書きました。「七草集」で様々な文体を駆使してみせた子規に、漱石は「兼て御趣向の小説は已に筆を下ろし給ひてや。今度は如何なる文体を用ひ給ふ御意見なりや」と尋ねます。

「大兄の文はなよなよとして婦人流の臭気を脱せず、近頃は篁村(饗庭篁村)流に変化せられ旧来の面目を一変せられたる様なりといへども未だ真率の元気に乏しく従ふて人をして案を拍て快と呼ばしむる箇処少なきやと存候」

読書してideaを養うべし

このように切り出した漱石は、文壇に立ちたいならオリジナルなアイデア(思想)を養うことこそが大切。文章のレトリックなどは「次の次のその次」に考えるべきもので、「御前の如く朝から晩まで書き続けにては此ideaを養ふ余地なからんかと掛年仕る也」と指摘し、さらに子規のやっていることは「子供の手習と同じ」と厳しい言葉を続けました。その上で「伏して願はくは(雑談にあらず)御前少しく手習をやめて余暇を以て読書に力を費やし給へよ」とアドバイスしたのでした。

「御前は病人也。病人に責めるに病人の好まぬことを以てするには過酷のやうなりといへども手習をして生きてゐても別段馨(かんば)しきことはなし」

こうした言葉にも漱石の真剣な思いが表れていますね。この手紙に対する子規の返事は残っていませんが、反論を試みたようで、1月初めに漱石は再度子規に手紙を送り、ideaがいかに大切であるかを力説し、ideaを養うには経験や文化に触れることが必要であり、そのためにも読書が必要だ、と説いています。

漱石の助言に子規も反発

しかし、子規も引き下がらず反論します。ただ「ideaがよくてもレトリックがダメなら同じじゃないか」などと苦しまぎれの反論しかできておらず、子規がやり込められた感じがします。

子規は漱石の助言を受け入れませんでした。俳句や短歌の道を進むことになる子規と小説へと進む漱石の違いと言ってしまえばそれまでですが、子規にもきっと漱石の言うことは分かっていたことでしょう。ただ子規には余命十年の思いがあり、レトリック磨きに精を出していた背景には少しでも先に進もうという焦りがあったのではないでしょうか。

俳人漱石が語った俳句の本質

漱石には子規の才気走った感じ、器用なところが危なっかしく感じられたということもあったでしょう。そういう漱石が子規の影響で俳句にはまっていくのも面白いですね。子規が志向した世界をも理解するようになったと思います。熊本時代に寺田寅彦に俳句の本質を問われた時にこのように答えています。

「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」(夏目漱石先生の追憶)

拙なるを愛す

それでもやはり漱石は、表現上の巧みさよりも下手でも何か訴えかけてくるものに心をひかれ続けたようです。漱石は、子規の晩年にあたる明治33(1900)年に子規から贈られたあずま菊の絵を大切にしていました。明治44(1911)年に書いた「子規の画」という文章があります。子規は人間としても文学者としても「拙」を欠いた男だったけれども、この絵には子規の「拙」があふれている。子規の「拙」を雄大に発揮させてやりたかった、と漱石は言うのでした。

余命が幾ばくもないことをいやでも自覚させられる病床で文学に打ち込む子規には、若い頃のように才を頼む余裕などなくなっていました。漱石が危惧した技術に走る軽さや嫌みは消えていました。たった一輪の菊の絵を描くのにどれだけ苦労したのか。子規の「奮闘」を目に浮かべた漱石には「あの正岡が自分のために」と、子規の「拙」がおかしくもあり、愛しくもあったに違いありません。

参考文献「漱石・子規往復書簡集」(岩波文庫)、「寺田寅彦随筆集第3巻」(岩波書店)、「夏目漱石全集10」(筑摩書房)

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posted by むう at 21:49| Comment(0) | 子規と漱石 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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