寄席通の二人
ともに慶応3(1867)年生まれの子規と漱石。明治41年、「ホトトギス」の子規七回忌号に寄せた漱石の談話によると、二人が親しくなったのは寄席好き同士だったからでした。「わすれてゐたが彼と僕と交際し始めたも一つの原因は二人で寄せの話をした時先生(子規)も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知つてゐたので、話すに足るとでも思つたのであらう。それから大に近寄て来た」(「子規全集別巻二」より)
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当時は第一高等中学本科(文科)一部の1年生。おそらく予備門時代から面識はあったでしょうが、交際が始まったのは明治22(1889)年の1月ごろ、とされています。はて?出典がなんだったかが思い出せず、なかなか分かりませんでした。いろいろ見返してようやく発見。
「木屑録(ぼくせつろく)」の評でした。漱石はこの年の夏休みに房総を旅行。その紀行文を漢文で書き、子規に評を求めました。子規も漢文で評を書いていますが、そこにありました。「子規全集(講談社)」九巻です。見た瞬間に読めるわけないと本を閉じたものですから気づかなかったんです。(笑)
「吾兄交者則始于今年一月也」
「今年一月」。これを見つけてようやく胸のつかえが取れました。
子規「七草集」を執筆、夏目金之助、漱石と号す
漱石が子規に評を求めたのには前段があります。子規は前年(明治21年)の夏休みを文人墨客の愛した向島の長命寺境内の桜もち屋の二階で過ごし「七草集」の執筆を始めました。「七草集」は各編のタイトルを秋の七草になぞらえ漢文や漢詩、和歌、俳句など七種の文体を駆使した文集です。明治22年5月に完成すると、末尾に50枚ほどの白紙を綴じ込み、友人に回覧と評を求めたのでした。いわば若き子規の自信作でした。漱石は漢文に漢詩を添えた評を寄せました。私には詳しく読み解けませんが、子規の才に心を動かされたのだと思います。だからこそ「自分もやってみよう」と、「木屑録」を書く気になったのですから。子規もまた漱石のただならぬ才に驚き、互いに認め合ったのでした。ちなみに漱石はこの時、「漱石」の号を初めて用い、子規への手紙で「さすがの某も実名を曝すは恐レビデゲス」とふざけながら、「当座の間に合せに漱石となんしたり」と述べています。
漱石の才に感嘆した子規
子規の「七草集」に刺激を受けた漱石は夏休みに「木屑録」を書き上げます。つまり漱石が文学への第一歩を踏み出したのは子規の影響でした。そして漱石は松山に帰省していた子規に評を求めました。自信満々だった子規は英語が得意だった漱石の漢文、漢詩の才にまたもびっくりさせられます。先の評には「余始得一益友其喜可知也」「兄者一千万年一人」と書き、優れた友との出会いの喜びを表し、さらには「筆まか勢」にも「曲調極めて高し」「真個の唐調にて天衣無縫ともいはんか」と、べた褒め。「英学に長ずる者は漢学に短なり」というように誰にも一長一短あるが、漱石のみは例外だと書いています。「夏目はこんなにすごかったのか」。子規が受けた衝撃の強さがうかがえます。負けていられないとライバル心も燃やしたはずです。そういう漱石のことを子規が友人評で「畏友」としたのはよく知られていますよね。
大将の漢文は…
冒頭の談話で漱石はこの時のことにも触れています。「何でも其の中に英書を読む者は漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我が兄の如きは千万人の中の一人なりとか何とか書いて居つた」
そして子規の実力については…
「処が大将の漢文たるや甚だまづいもので、新聞の論説の仮名を抜いた様なものであつた」とばっさり。ただ漢詩の方は子規の方がうまかったとしています。
子規を励ます漱石
このような形で付き合いが始まった二人ですが、この間、非常に大きな出来事がありました。以前にも書いた子規の喀血です。付き合いの始まったこの年の5月9日のことでした。子規を見舞った漱石はその日のうちに手紙を出し「極めて大事の場合故出来るだけのご養生は専一」と、万全の治療を受けるために入院を勧め、「小にしては御母堂のため大にしては国家のため自愛せられん事こそ望ましく」と心を込めていたわったのでした。このとき漱石が「to live is the sole end of man!」(生きることこそ人間の唯一の目的)という英文とともに子規に送った俳句をもう一度紹介しておきます。帰ろふと泣かずに笑へ時鳥
聞かふとて誰も待たぬに時鳥
子規には漱石の心配りと激励がありがたかったことでしょう。それにしても当時の若者の教養の高さって…。彼らみたいに漢文や漢詩を作ったり、読めたりする現代の学生ってどれぐらいいるだろう?お前はどうだって?漢字の羅列を見て本を閉じたのですから問われるまでもありません。
参考文献 「子規全集(講談社)」別巻二、九、十、二十二巻、「漱石・子規往復書簡集」(岩波文庫)
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