写真は子規の父の墓があった正岡家累代の墓跡(現在は移転)
前回、途中で脱線気味になってしまったのですが、子供のころの逸話もたくさんありまして…。今回もそんな感じでいろいろと拾っていきたいと思います。
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実家の火事の原因は?
前回も書きましたが、正岡家は明治2年(1869年)、子規3歳(数え年、以下同じ)の時に失火で全焼します。原因は味噌をつくる麹をこたつで発酵させていたため、あるいは曾祖母久と父常尚が酒を飲み、七輪の火を消し忘れたためと言われています。後者が原因なら、ほんと困った人だなあ。酒飲みお父さん!曾祖母も酒豪だったらしいです。お灸はいつまで?
お灸をすえられても我慢できた子規の話をしましたね。当時は子供にお灸をすえる風習があり、妹律の話では1年に2回、2月と8月にすえていて、背中や腰など9カ所、半日仕事だったそうです。明治16年に子規が上京するまで続けられたんだとか。他家でもそんな年までしていたものなのでしょうか。ちょっとびっくり。父の死
明治5年、子規は6歳の時、父を亡くしました。死因は脳溢血という話もあったみたいですが、子規は「筆まか勢」の「父」で「脂肪変化」だった疑いがあると書いています。それによれば、出入りの漢方医が2~3日で治癒すると診断していたのに容態が悪化し、ほかの医師を呼んでも治療を施すこともできず亡くなったということです。40歳でした。子規は「十余歳にて此の話を聞き、かの漢医をにくき者に思ひ、道にて面をあはす毎に胸もはりさくるが如くくやしく 昔ならば父の敵を討つべきものをとて歯がみせり」と書いています。江戸時代だったら仇討ちが認められていましたからね。さすが武士の子。周囲に悪く言われていたとは言え、父は父。子規の父への思いがよく分かります。ただ、「脂肪変化」はとても治せる病気ではないことを知り、それほど恨まなくなったとも書いています。脂肪変化ってなんでしょう?脂肪肝?
父の葬儀
先の「筆まか勢」の文章によると、子規は父の病気が悪くなった頃、見舞客の多さに「喜びて狂ひおどりければ」という状態で母の実家大原家に預けられました。父の死去に際しても状況を飲み込めなかったのか、母が泣いているのをいぶかしみ、死に水を取っても何か分からなかったとし、49日の間、墓参しながら一度も悲しいと思ったことがなく「げにあさましきかりき」所業だったと悔いています。最後は、父に手習いを教えてもらった思い出で締めくくられています。清書を伯父に見せたことや自分の文字の書きぶりまで覚えているとして、「いろ」という文字の清書を再現して書き添えています。この文章を「筆まか勢」に書いたのは明治22年。喀血した年です。喀血前後いずれの時期か判然としませんが、おそらく喀血後、自分の死を予見して父に思いを寄せたのではないか、そんな気がします。
家督相続と髷
明治5年、父の死の直前、6歳で家督を継いだ子規は藩主に報告するため髷を結いました。すでに廃藩置県が実施されており、その必要はなかったのですが、髷はそのままにしていました。子規は髷を切りたがりましたが、西洋嫌いの祖父大原観山が許さなかったのです。翌年小学校に入学した時のことを覚えていた友人一色則之という人がこんな談話を残しています。「兄が『処さんが来たよ』といふから見ると新入の生徒の中に髪を茶筅に結つて髪を後ろへ垂らし、袴を穿いた子規がゐた。向ふからも声を掛けた。イガグリ坊主の一同は子規の風体に物珍しさうに眼をつけた。『処さんは先頃お父さんが没くなつて戸主におなりだから吾々様子が異ふのかも知れん』と兄が云つた」
いつのまにか友人間でも髷を結っているのは、はとこの三並良と子規の2人だけになり、明治8年、三並の父が観山に懇願してようやく切ることを許されました。子供にとって周りとあまりに異質なファッションはきついですからね。結髪から3年も我慢し続けたわけで。うれしかったでしょう。
次回もこんな調子になるかと思います。それではまた。
参考文献「子規全集」(講談社)10、22巻、別巻2、3巻
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