偶像破壊
血を吐いて、寝たきりになって…。病弱。弱々しい。正岡子規についてそんなイメージを持っている人が多いかもしれません。でも実際の子規は強い人でした。特に精神的な強さは特筆すべき点だと思います。例えば子規は俳句革新を進める手始めに芭蕉をただただ崇拝する風潮を批判し、偶像破壊にチャレンジします。
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「俳句分類」と俳句革新
喀血から2年後の明治24年(1891)年ごろから子規は「俳句分類」に着手していました。古今の俳句に目を通して季題や内容によって分類していく。半端なく気の遠くなる作業。よく実行に踏み切ったものです。実は、これが一番すごい子規の仕事ではないかとも思っています。子規は、この作業と並行して明治25年に新聞「日本」に「獺祭書屋俳話」を連載し、「このままでは俳句や和歌は明治の間に滅びる」と危機感をあらわにし、俳句革新の第一声を上げました。翌年に連載した「芭蕉雑談」ではさらに大胆に旧態依然とした俳句界に挑戦状をたたきつけました。
芭蕉を一刀両断
元禄から200年。芭蕉は宗教の教祖のような位置に祭り上げられていました。「古池や蛙飛び込む水の音」などは俳諧に興味のない人でも知っているほど人口に膾炙し、芭蕉と言えば誰もがありがたがる。そんな雰囲気が定着していたようです。子規はそんな風潮を「何も考えずにあがめ奉っているだけじゃないか。作品を見ろよ。本当に句の良さが分かってありがたがっているのか?」みたいな感じで批判し、「芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ 上乗と称すべき者は其の何十分の一たる少数に過ぎず」と一刀両断します。芭蕉が残した千句あまりのうち、いい句と言えるのは二百句程度に過ぎないと断定するなど、「俳句分類」に裏打ちされたデータと見識をフルに活かして鋭い論法で芭蕉論を展開していきます。
芭蕉の良さは?
子規は、佳句が少ないからといってそれが芭蕉をおとしめることにはならないとも言います。芭蕉のよさは古人のまねをするでもなく、貞門や談林派の改良型でもなくオリジナルの俳句を確立したところにあると、評価しています。蕉風確立後、芭蕉は十年しか生きておらず、しかも詩境がピークを迎えたのは晩年の数年なのだから、なんだかんだ言っても佳句を残したすごい俳人じゃないか、というのが子規の芭蕉のとらえ方でした。著名な作品も俎上に乗せて論じています。「古池や」の句は、禅の境地だ、なんだと言うけれども、ただ音が鳴ったのをありのまま詠んだけ。善し悪しを超越した句だ、などと、どっちつかずな感じですが、子規は技巧的な句や理屈っぽい句を否定し、「雄渾豪壮」な句が良いとしています。例えば「物いへば唇寒し秋の風」は、ただの教訓に過ぎないと批判。「荒海や佐渡に横たふ天の川」は勇壮だとほめています。何かを主張をする時に共感を得るためにはどう展開していけばいいのか。論戦のお手本にもなりそうです。
鑑賞力を磨こう!
芭蕉にだっていい句も悪い句もある。子規は「それぞれが自分の感性で鑑賞し、判断するべきじゃないのか」と言っているようです。後の「俳諧大要」で言うところの「美の標準」を読み手もしっかり身につける必要があるといったところでしょうか。作品の作り手だけでなく、受け手も刮目することがなければ俳句の革新は進まない。そんなことを考えていたのかもしれませんね。子規のやったことがどんなことだったのか。例えば手塚治虫を正面からこき下ろすと言った感じでしょうか。現在のように何に対しても批評・批判が活発に行われる時代ではなかったでしょうし、相当な勇気と覚悟が必要だったはずです。読めば周到に準備をしていたことも分かりますし、やっぱりすごいなぁと思ってしまうのでした。子規はのちに短歌でも同じ事をして敵をつくって苦労するのですが、それはまたいずれ。
参考文献「子規全集」(講談社)4巻(講談社)
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