<オンラインゲーム文豪とアルケミストの子規>
夏の甲子園開幕があさってに迫りました。今年も球児の熱い夏が始まりますね。さて正岡子規と言えば野球。よく御存知の方も多いと思いますが、子規を語るには避けて通れないテーマですのでお付き合いください。まずは野球に熱中した子規について書いてみました
日本に野球が伝わったのは子規が数えで5歳の明治4年(1871)年。米国人ホーレス・ウィルソンが東京開成予科で教えたのが始まりとされています。開成予科は後の大学予備門、第一高等中学校の前身で、子規も予備門・一高時代に野球を知りました。年譜や友人の回想などによると明治18~19年のことだったようです。
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室内でドタバタ
子規と同年生まれで「ほとゝぎす」を創刊した柳原極堂の「友人子規」には次のような一節があります。学校から帰つて来ると室内を騒ぎ回り、或は手を挙げて高く飛んだり、又は手をさげて低く体を落すなど、いろいろの格好をするので、升さん君は何のまねをするのかいと訊くと、これはね、ベースボールと云ふ遊戯の球の受け方練習なのだ、トテモ面白いよ、君一度学校へ見に来給へなどと言つてゐた。
野球を知らなければ、何をやっているか、ちんぷんかんぷんだったでしょうね。わざとらしいアピールだったのか?単に練習したかったのか。いずれにしても友人を巻き込みたいと思っていたのでしょう。
寄宿舎仲間でチーム結成
野球の面白さを知った子規は、旧松山藩主久松家が松山出身の学生のために整備した寄宿舎常磐学舎の友人たちに一高仕込みの野球を広めてチームを作りました。「友人子規」にも引用されている筆まかせ第三編の「常磐会寄宿舎の遊戯」(明治23年)に、その経緯が書かれています。一昨年頃以来、鉄棒、高飛、桿飛抔(など)の遊戯盛にして、余等勝田氏等と時々「ボール」を以て遊びしかども 常に他の遊戯のために制せられたり 然るに昨年夏、竹村氏も亦寄宿せしかば、こゝに「ボール」に一人加へしが「ボール」は追々に盛大になるの傾きあり、一人引き込み二人引き込み、終に昨年節季に至っては二十人程の仲間を生ずるに至りしかば 一の「ボール」會を設立し 上野公園博物館横の空き地に於て二度許りベース、ボールを行ひしことありたりき
勝田は、子規より2歳下の勝田主計。大正末から昭和初期に大蔵大臣や文部大臣を努めました。野球好きだった子規の思い出を書き残しています。子規が常磐会寄宿舎に入ったのは明治21年9月。少し遅れて勝田も入舎しましたが、勝田は既に、この年の2月ごろに学校で子規に誘われてベースボール会員になっていました。竹村は竹村鍛。碧梧桐のお兄さんで、幼い頃からの仲良し「五友」の一人です。子規は勝田を「郷友」、竹村を「敬友」と評しています。極堂によると、2人の野球仲間を得た子規は宿舎の学生の3分の2をメンバーに引き入れたそうです。
<正面の建物が常磐会寄宿舎跡地。文京区教育委員会の案内板のほかは当時をしのぶものはない>
バット一本球一個を生命の如く
常磐会寄宿舎の開設は明治20年12月。本郷の炭団坂の上にあった坪内逍遙の私塾を買い取って整備されました。敷地は約300坪。極堂は「友人子規」に、敷地いっぱいに建物が建てられ三間幅ぐらいの細長い庭に鉄棒やブランコなどがあったと書いています。野球は門前の道路を隔てたところにあった空き地でやっていました。子規は「新年二十九度」で、寄宿舎に入った明治21年のことを「ベースボールにのみ耽りてバット一本球一個を生命の如くに思ひ居りし時なり」と振り返っています。学校だけでは飽き足りず、寄宿舎でも仲間を増やしたくてウズウズしていたことでしょう。
素手で捕球 子規は独特の流儀で
子規は左利きでしたが、友人たちの回想によると投げる時は右で、主にキャッチャー、ピッチャーとしてプレーしたようです。勝田の「子規を憶ふ」で「子規の球を取る流儀は一種特別で、掌を真直に伸べて球を挟むやうにした」と振り返っています。当時はグローブもなく素手でキャッチングしていましたが、投手の球もワンバウンドしてから取っていたので大丈夫だったと勝田は言っていますが、後に新聞日本で同僚となる五百木瓢亭は「猛烈なものだった」と言っています。硬球ですから、痛いに決まっています。以前、野球好きだった寺田寅彦の指が曲がっていた話を紹介しましたが、河東碧梧桐も「子規を語る」の中で寄宿舎時代のノックで指が曲がり「この時の一記念」と述べています。選手兼監督
子規がキャッチャーやピッチャーをやったのは、監督気分で自分がリーダーという自覚を持っていたに違いなく、重要なポジションを譲らなかったのでしょう。筆まかせ第三編「ベース、ボール勝負付」によれば、明治23年3月21日に上野公園で行われた試合には、往来の書生や職人などが見物に集まり、一時は「立錐の地なし」というぐらい賑わったそうです。寄宿舎では4度目の試合で、子規は「今年一月の頃施行せし時にくらぶれば皆非常の上達を現したり」と述べており、常に指導者目線でいたようです。ここには、両チームのポジション、選手名と打撃成績らしき結果を記した記録も掲載しています。スコアブックというより現在の新聞の打撃成績のような感じです。選手兼監督の子規は続けて「舎生弄球番付及び評判記」と題して各選手の腕前を批評しています。プレー時の動作などを丁寧に分析しており、子規の観察眼がいかんなく発揮されています。子規とともにベースボールの先達だった勝田、竹村の2人が大関とトップに位置づけられていますが、子規自身については記述がなく、やはり自分は別格と思っていたのでしょう。
旧藩主の息子もメンバー
この試合には、旧藩主久松勝茂の息子定靖も参加しています。子規は彼ら親子の日光・伊香保旅行に随行したこともありました。こういう関係を持てたのは藩儒だった祖父大原観山の余慶でしょうか。定靖は番付では東の前頭筆頭。子規は「御手つきいとなまめきて物なれたたる風情也 御上達遠きにあらざるべし」と敬意を込めた評を書いています。野球のプレーを「なまめく」と表した例は他にあるのかどうか。やんちゃなようで長幼の序、筋目を重んじる子規らしさがこういうところにもうかがえます。喀血後も熱中
この日、ピッチャーを数十分間務めた子規は肩に疲れを覚え、寄宿舎に帰ってから仲間に肩をほぐしてもらいました。この時の心地よさを「老人の仲間入り」と題して「余が生まれて已来、肩をたゝくの快味を覚えたるはこれをはじめとす」と記しています。子規が今までにない疲れを覚えたのは体自体が病魔に蝕まれつつあった影響もあったとも考えられます。この試合は明治23年の3月。御存知の通り子規が喀血したのは明治22年5月です。周りは喀血後も野球を続ける子規の健康を心配したようですが、先に触れた「BaseBall」で「ベースボール程愉快にてみちたる戦争は他になかるべし」と書いた子規の野球熱は冷めませんでした。
最後の野球
とはいえ、いつまでもそんな状態が続いたわけではありません。野球選手としての子規の衰えを書き残しているのが碧梧桐です。彼が寄宿舎に入ったのは、先の試合の約1年後。「子規を語る」には、この時期に珍しく子規たち「元老」が練習に出かけるというので碧梧桐もついて行った日のことが紹介されています。碧梧桐は守備位置つき打席には子規。第一人者の登場に囃し声も飛ぶ。けれど子規は空振りを連発。十に一度程しかバットに当てられない。子規の様子に不吉なものを感じた碧梧桐は練習後の子規の様子も見守っていました。「馬鹿にくたびれたかい、バットがあたらないと、一層くたびれるようじゃナ。しばらくやらないと、ちょっとした呼吸を忘れる…恐ろしいもんじゃナ」
こう語っていた子規の顔は青ざめ、あごの関節が小刻みに震えていたと言います。
極堂はこの出来事を明治24年の3月から6月ごろと推測し、「これが子規の弄球の最後のものであつたと想はれるのである」と述べています。
野球の「伝道師」に
夏草やベースボールの人遠しこれは明治31年の俳句。子規がベースボールの俳句や歌を詠んだり、ルールや醍醐味を紹介したりするのは寝たきりになってからです。もう一度フィールドに立ちたかっただろうなと思うと切なくなりますね。
野球殿堂入りする理由にもなったそのあたりの話は次回に。ちなみにベースボールを「野球」と訳したのは子規ではありません。子規は大の仲良しだった大谷是空宛の書簡で「野球」という号を用いましたが、これは幼名「のぼる」にひっかけて「のぼーる」と読ませたのでした。ユニフォームにバットを持った有名な写真を送った相手もこの是空です。
余談になります。紹介したように子規は、野球が流行る前の常磐会寄宿舎では、鉄棒や高飛、桿飛が盛んだったと書いています。少し気になったのが桿飛です。桿飛は棒高跳びですよね。子規より16歳下の志賀直哉はスポーツ万能で、ポールジャンパーとして有名でしたが、みんながみんなやるようなスポーツだったのでしょうか?難しそうなイメージがあるのですが、当時の学生は普段の遊びで気軽に跳んでいたのでしょうか?
主な参考文献 「子規全集(講談社)」第十、二十二、別巻二、三巻、柳原極堂「友人子規」(博文堂書房)、河東碧梧桐「子規を語る」(岩波文庫)
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