2017年05月02日

子規の生涯④泣き虫

子規の生家
写真は子規の生家跡

こんにちは。お立ち寄りくださった皆さん、ありがとうございます。
いきなり喀血の話から始めてしまって、早くもこの先どうしようかと悩んでしまいました。後先考えずにやるとダメですね。素直に人生を順にたどればよかったかも。そういうわけで今回からは、幼少時の子規を見ていきたいと思います。

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貧乏士族の子

子規は慶応3(1867)年9月17日(新暦10月14日)、現在の松山市花園町に生まれました。子規全集(講談社)の年譜によると出生時間は午前9時頃。天気は晴れだったそうです。こんなことまで載っている、すごいなあと思いましたが、子規全集別巻二所収の母八重のインタビュー「子規居士幼時」が元ネタでした。別巻二には、河東碧梧桐が聞き書きした「母堂の談話」も掲載されています。

では正岡家がどういう家だったのかも併せて見ていきましょう。

父親は松山藩の下級藩士隼太常尚。八重は藩の儒者大原観山の長女。子規の本名は常規(つねのり)。最初の幼名は処之助(ところのすけ)でしたが、父の友人がつけたこの名は周囲の誰も気に入らず、学校に行き出すと「ところてん、ところてん」とバカにされるので升(のぼる)と改めました。「のぼさん」と呼ばれる前は「ところさん」と呼ばれていたんですね。

父の役目は馬廻り加番。馬廻りは戦時には藩主の側を守る護衛役的なお仕事。加番は補欠ということらしいです。給料は15石。調べてみると年収100~150万円ぐらいっぽいです。石取りではなく俵取りだったという話もありますが、いずれにしても「貧乏士族」(妹律の談)であったことに間違いはなさそうです。

曾祖父は鎖鎌の達人!

父の実家は同じ松山藩の佐伯家。常尚は子規の曾祖父常武の養子でした。後に子規は藩の右筆だった佐伯の伯父半弥のもとへ手習いに通います。また同じく伯父の政房の長男政直は銀行員となり正岡家の財産を管理することになります。常尚は大酒飲みで評判のよろしくない人でした。ちなみに常武も大酒飲みでしたが、この人は鎖鎌の使い手だったそうです!

外祖父は藩の儒学者

八重の父観山はいわゆる学者さん。藩校の教授を務めた名士。子規に目をかけていました。八重の弟に当たる三男が外交官、政治家として活躍した加藤拓川で、子規が上京できたのは彼のおかげでしたし、その後も子規を支えました。彼の三男忠三郎が、子規没後、妹律の養子となって正岡家を継ぎました。この家系からは、八重のいとこで、子規の幼なじみでもあったドイツ哲学者三並良(はじめ)も出ています。子規が成長していく上で精神的にも経済的にも大原家の影響、存在は非常に大きいものだったと思います。

小柄でまん丸

八重の語り残したところによると、子規は、ほかの子供よりも小さく、丸くころころと太った男の子でした。17歳(この稿の年齢はすべて数え年)で上京する時、八重には14~15歳の子にしか見えず1人で上京できるか心配したと語っています。ちなみに八重は、子供のころの子規は「見苦しい顔」だったとし、「18歳ぐらいからようやく人並みの顔になった。大人になってあれだけ顔が変わるのも珍しい」という感じの、なかなかひどいことを言っています。

子規が3歳の時、実家が火事になりました。子規は母と大原家に出かけていて帰る途中でした。母の談話や子規の「筆まかせ」によると、本人は火事のことが分からず、「提灯、提灯」と喜び笑い、言葉覚えが遅かったため、「ヤテタ。ヤテタ」と言っていたそうです。

弱味噌の泣味噌


おとなしい子で棒などをもって外で遊ぶようなことはなく、貸本を読んだり、絵を見たりするのが好きな子供でした。不器用で凧揚げや独楽回しなどの男の子らしい遊びは苦手で百人一首が得意でした。

「母堂の談話」には、子規がどんな子供だったかよく分かる次のような一節があります。

「小さい時分にはよつぽどへぼでへぼで弱味噌でございました。松山で始めてお能がございました時に、お能の鼓や太鼓の音におぢておぢてとうとう帰りましたら、大原の祖父に、武士の家に生れてお能の拍子位におぢるとそれは叱られました。近所の子供とでも喧嘩をするやうな事はちつともございませんので、組の者などにいぢめられても逃げて戻りますので、妹の方があなた石を投げたりして兄の敵打をするやうで、それはヘボでございます」

子規もまた「墨汁一滴」(明治34年4月8日付)で当時をこのように振り返っています。

「僕は子供の時から弱味噌の泣味噌と呼ばれて小学校に往ても度々泣かされて居た」。壁にもたれていると右から押してくる。左によけると左からも押してくる。困ってしまうと足を踏まれる。そうなるとたちまち泣き出す、といった具合だったようです。

ブサイクで臆病で泣き虫のいじめられっ子。うーん、読書好きという点は文学者の幼年期らしいと言えばらしいですが、武士の家の子としてはつらかったことでしょう。明治の世になったとはいえ、人々の意識まで一気に変わるわけではありません。武家社会の名残は子規の幼少期にはまだまだ生きていましたから。学生時代に野球に熱中したイメージともかけ離れた感じがしますね。

本当は強かった少年子規!

しかし、子規はただの泣き虫だったわけではありません。先の「墨汁一滴」にはこうも書かれています。「灸を据ゑる時は逃げも泣きもせなんだ。僕をいぢめるやうな強い奴には灸となると大騒ぎして逃げたり泣いたりするのが多かった。これはどつちがえらいのであろう」

言うまでもなく偉いのは子規ですよね。そんな子規がどんなふうに成長していくのか。また紹介していきたいと思います。

参考文献「子規全集」(講談社)11巻、22巻、別巻2

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posted by むう at 21:26| Comment(0) | 子規の生涯 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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